私の心が消えてくれたら、と願った日
こんばんは。石川優実です。
人といること、孤立感、PTSDの症状
11月半ばから、人と過ごす時間が多かった。
沖縄の叔母の家に一週間以上泊まらせてもらい、12月は岐阜の好きな人の家で一週間ほど過ごした。
その反動なのか、昨日東京の自分の家に帰ってきてからあまり調子が良くない感じがする。
自分の愛着対象と一緒にいられると、PTSDの症状である孤立感みたいなものを感じることがほとんどなく過ごせる。
沖縄の叔母の家にいるときはお酒を飲まなくても大丈夫でいられたし、好きな人といるときは直接的な外部からの刺激があったのでフラッシュバックが襲ってきて不安になった時間があったけど、彼が帰ってきて顔を見たら落ち着いた。安心、というものがもらえた気がした。
一方、東京に帰ってきて、開放感があった。不安な症状が出ることは少ないけど、人といるというのはそれなりに気を張っていないといけないことではあるので、やっぱり基本は一人がいいな、と思ったりした。でも、一緒にいた時間穏やかに過ごせたことは事実で、それを思うと心が温かくなる。
翌朝、今なんですが精神状態が悪い。安心と緊張の中にいたのでその反動なのだろうか。何もしたくない、というのは家でベッドで横になっていることすらしたくない、という状態。それすら今の自分にとってはしんどい。かといってどこかに行こうとするとわぁっといろんな声が聞こえてきて、いろんなやらなければいけないことが頭の中を埋め尽くされて、身動きが取れなくなる。何もしたくないし、何もできない。休むことすらしたくない。つまりもうこの世界から自分を消してしまいたい。
休むこと、無理をしないこと、自分を労ることすら自分の中で義務になる。それをしないと回復しない、と考えると、「ちゃんと自分に優しくしなきゃ」となって、よりストレスになる。でも実際問題休んで自分を労らないと回復しないんだもん。じゃあどうすればいいんだよとなる。
自分という、何かを感じる存在を消し去りたい。消えてなくなったらどれだけ楽なのだろう。もう回復のために頑張ることに疲れた。死なないために頑張ることに疲れた。症状を和らげるために頑張ることに疲れた。自分が自分を取り戻すために頑張ることに疲れた。
人といるとそれなりに元気に過ごせることも、それが自分の今のめちゃくちゃな状態をうまく伝えられない要因になっていることも、実際にそのときは本当に幸せを感じていることも、それなのにまたすぐにダメになってしまうことも、この状態も経験からすると多分長くて持続するのは半日で、そのあとはケロッと大丈夫な状態になっているであろうことも、もうなんか何もかもが嫌だ。
昨日までの自分はなんだったんだろう。今回の帰省は、好きな人の家で過ごしたけれど途中二十歳になる前にバイトしていた時の友人たちとご飯に行ってカラオケに行ったり、中学からの友人と会って昔話をしたり、実家に帰って父と母と楽しくおしゃべりをして、自分の部屋に置いてあるいろんな思い出の品を見返したり(高校の時のプリ帳とか出てきた)、16歳で被害にあってから自分がなくなっていたと感じているけど、それでも自分はそういう中できちんと楽しく心が温まるような時間と人間関係を作ってきていたのだ、と思えて嬉しかった。
だったのに、今日になったらまた元通り。元通りどころか、なんなら悪化しているような気さえする。
また時間が経てば、これも「波の一部だった」と理解できる時が来るだろうか。でもまたその後には、同じように落ち込むんだろう。
今の状態がずっと続くわけじゃないことは頭では理解している。けれど、だからと言って今この時が辛くなくなるわけじゃない。
chatGPTに相談したら、「今日のあなたは何もしなくていい、ただ生きることだけを目標にしましょう」と言われた。ただ生きるだけでいい1日なんて、なんてハードルが低いんだと思う。「そんな1日でいいわけがないだろう」、という声と、「生きるだけすら危ういなんてどんだけ弱いんだ」という声と、「それだけの暴力に遭ってきたってことなんだよ」という声などが頭の中でぐちゃぐちゃになる。どれもこれも本当に私の中にある声だ。だけどそれぞれがあまりにも言うことが違うので、さらに混乱してしまってがんじがらめになり、やっぱり身動きが取れなくなる。
書けば整理されて、少しはマシになるかなと思ってこうやってレターに残してる。でも今は、こうやって整理ばかりしようとする自分のことも嫌だ。
苦しい。つらい。しんどい。愛知や岐阜の言葉で言うところのえらい。死にたい。どれも当てはまりそうで、全然違う。言葉がまだ足りないと思う。この痛みを指す言葉が存在しない。そもそも「痛み」というのも違う。だって痛くはない。
今のところ、よく精神疾患に関する本を読んでいるときに訳として出てくる「圧倒される」という表現が近いかもしれないと思う。
圧倒されて飲み込まれて、どれが本当の自分がわからなくなって、どれも本当のような気がするしどれも偽物のような気がする。確かに感じられた回復や自己というもの、があったはずなのに、それすら本当にそうだったのかと疑いたくなる。自分が感じたことは結局その場限りの浅い浅いもので、そんなことに対して「自分を取り戻してきているんだなぁ」とか感動していた自分が情けなくなる。
今日はダメな日だ。書いたって寝たって泣いたってゆっくり休んだって美味しいご飯を食べたって、ホッとする時間を作ろうとしたってダメな日。とにかく自分を責めるしかできない日。自分を責めたら回復が遅くなることはわかってる。でもそれくらい許してほしい。そういう病気なのだ。
その後
上の文章を書いてから6時間ほど経った時、「めちゃくちゃのぐちゃぐちゃな精神状態だったけど危険なことはなかったな。今生きてるな」と思った。
がんじがらめになって身動きが取れなくなっても、何度も死にたいと思っても、お酒やタバコに依存しまくっても、自分を大切にできない選択をしてしまっても、どれだけ自分を責めようと、危ないことも怖いともない、今は安全なんだと、やっと少しずつ脳が理解してきているのがわかる。
その時はずっと同じような「落ちる時間」であっても、それでも確実にちょっとずつ何かは変わっている。また戻ってしまっても、それでもまた大丈夫だと思える瞬間がきっとやってくる。それを繰り返して、再学習させていくしかない。どれだけの時間がかかるかわからないし、一生こう生きていかなければいけないのかもしれない。
私は私で生きていく以外、選択肢がない。
石川優実
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