自分の裸が一生インターネットの海から消えないということについて考える
こんばんは。石川優実です。自分にとっての暗い話ですので、フラッシュバックや気分がすぐれない人は今日は読むのをやめておいてね。
裸になるということ
今年の大河ドラマ「べらぼう」について、SNSで意見を目にすることが多くてちょっとしんどかったですね。
以下、Xに投稿した自分の意見のまとめを整理したもの。脈絡ないところもありますがご容赦を。
複雑な背景と未来がある
私は許可してない裸を勝手に発売されたり、性行為中に無許可で動画を撮られたことがあったのだけど、写真集や映画で脱ぐことによって過去のそれらが公開されたらこわいとか、どうしようという気持ちを上書きしたようなおかしな気持ちの作り方をしました。脱げばそれらが少しは被害が少なくなるような、そんな感覚に陥っていた。
裸になるっていうのは人によって本当に複雑だから、その場にインティマシーコーディネーターが入ったら完全に安全かと言うとそんな単純なものではないと思う。(もちろん入らないよりは絶対いいが)
その場では本人にもわからない色々があとで出てきて、なかなか取り返しがつかない事があると思う。死にたい気持ちをいつまで持ち続ければいいのか、今の私にはわからないな。その映像や画像の悪用だって簡単にできてしまう。
撮影時は大丈夫でも、実際公開されたらしんどかった、とか全然ある。その反応で傷つくことだってあるし、大画面で観たら無理だった、メディアにそれが出てしまうということが無理だった、など色々ある。
私と同時期に映画で脱いだグラビアの子たちは結構その後それをなかったことにしてる子もいる。
ハームリダクション的なところがあるかもしれない難しさ
ただ、私もわざわざ女の裸のシーンが本当に必要なのか、とは思うのだが、難しいと思うのはその指摘とは別に実際に裸になった女性が存在していて、その人たちがその指摘に対して悲しい気持ちになってしまうんじゃないかということ。こちらはその女性については何も言ってなくてもね。
これは想像でしかないのだけれど、大河の仕事ってそれ以外の仕事よりも「大きないい仕事」、だと思うんですよ。
グラビアで脱ぐよりも映画で、という気持ちでなんとかトラウマをケアしていた自分としては、その時はそれが最善と思っていたからなぁ。そういう当事者からしたら、大河のような大きな舞台で脱ぐことができて、ある種キャリア的には「差別されにくいヌードを出せた」、という感じになっていることもあると思う。(私は映画や写真集を出したときそんな感覚だった。)
それを女性たちから否定されたら、どうしても自分自身が否定されていると考えてしまって余計自暴自棄や頑なになってしまうかもしれない、と当時の自分を考えると思う。
裸じゃない私の写真
脱げる女・脱げない女、脱がないといけない女・脱がなくてもいい女、そして脱がせるだけの男
やっぱりもやもやするのは、なんでAV女優さんなんだろう。というところ。いや、なんでかって言えば脱いでくれるからというのは大きいと思うけれど、なんでじゃあAVじゃない女優さんは脱いでくれないんだろうかね。もしくは脱がせようと交渉すらしないのかね。
結局背景にそういうこともあってもやる。裸になりたくないってことでしょ、多くの人が。リスクがあるからでしょ。ならなくていいならならずに大河に出たいからでしょう。(あとで色々Xで見かけたのは、別の宝塚出身の女優さんのお尻を隠すようにAV女優さんの裸を重ねられていたと聞きました)
女が脱ぐということに関して、これまでの歴史上被害が多すぎたし先日の中島監督の件のようにまだ解決してない、もしくは被害最中のこともある。
その状態である今で、わざわざ女の裸を使わなければいけない理由ってどこまであるんだろうか。
せめてこれまでの被害について解決しまくってからでないと・・・
女性の裸、というものにはただ単にその裸体というだけの話ではなく、この社会の中でどう扱われてきたか、「ランク付け」みたいなことをされてきたか、脅しに使われてきたか、屈辱を与えてきたか、尊厳を奪ってきたか、胸に関しては女性のみ制限して「露出することが恥ずかしい」という思い込みを植え付けておきながら自分たちの勝手な快楽のために出させたか、本当に色んな複雑な話が絡み合っていることであるのと同時に、それが男性にはないという対等でない状態だということを考えながらの慎重な表現にしないと難しいと思う。
まだ過去にはこうだった、とかそういう終わった話ではないんだし。
私は「女性の胸は隠すもの」という社会の作り方を本当に憎んでる。
こんな概念がなければ、私の許可していないバストトップが露出したものを勝手に発売されるなんて被害にもあわなかったし、傷つくこともなかった。女性だけ制限するような風潮を作り出しておいて、そこに価値を見出すかのようにして尊厳を根こそぎ奪い取る、まじで最悪なあり方だと思う。
特に映画の世界に少しだけいたときは本当にずっと憎んでた。
男俳優は脱がなくても主役になれるんだ、映画に出られるんだ、って。「脱ぐ」という概念がない男俳優はなんて羨ましいんだろう、とずっと思ってた。
誰の「覚悟」?
あと、裸を世間に晒したことのない人間が女の裸の表現を「覚悟を感じた…」とか言ってるの見るとあほかと思ってしまう。自分事でない人はお気楽でいいよな。自分の裸が一生誰でも見られるインターネットやメディアに流されてみてからそれ言ってみて、って思っちゃう。
作る側と裸を出す側の「覚悟」の差がすごすぎる。裸を出すことになった人は、それが一生付きまとうしこれからの仕事の邪魔をすることだって普通にあるんだよ。(オーディションでヌードになった人はだめ、とかいう条件とか全然ある)リスクの差が、作る側と出る側でありすぎだろう。
本人が納得してるからとか(その納得がどこまで自分のものなのかもまたわからないけれどそれはまた別軸の話)そういう問題ではなく、女性の裸をどうやって消費してきて、裸になった人たちはどういう傷を負って、その後どうなっているのかとかもっと検証されて欲しいと思うよほんと。
例えば私はいまだに過去の裸の写真を突然Xにリプライで貼られたりする嫌がらせを受けることがあるけど、その時が一番死ぬしかないと思う。誰も止めてくれないし、「自分で選んで脱いだんでしょ」と言われ続けてまた写真を貼られる。例えば女性差別や性暴力に声をあげたら絶対にその時の写真を出される。何も悪いことしていないのに、なぜかそれが悪いことかのように。私の活動を見ていたらわかると思います。そういうことまで責任とれるかね、脱がせる側の人は。
誰が悪いかと言ったらそんなのそういう嫌がらせするやつが悪いに決まってる。
だけど、そういうことが法律で裁くことも止めることもできないようなこの社会で、自分たちの責任ではないから別問題、でいいのか?ってこと。それを知りながら対策せずに、嫌がらせ受けて本人が精神疾患になっても関係ない?
そろそろそういうところまで考えてくれるような世の中になってほしい。
女性の裸を表現として使えるのはそのあとではないか…男女平等になってからじゃないとほんと難しいと思う。ただそうなった時に果たして女の裸を表現に使おう、と思うのかどうかということも思う。
メディアに許可のしていない裸を公開され一生消すことのできない人間としても、風俗で働いていた人間としても、大河はフラッシュバックしまくりだろうから観れない。
後から傷ついていた、と言える社会になってほしい
いつも思うけど、その時例え自分で選んだと思っていても、あとから傷ついてもいいんだよ、とは言いたい。無理やりやらされたかどうかとは別の話で、傷つきはあっていいし、あったと自分が受け入れられなければいつまで経っても傷が癒えない。
「自分で選んだこと」を理由に、傷ついてはいけないかのような気持ちになったりそういう黙らせ方をしてくる人がいるけど、自分で選んでも傷つくことって人間全然あるし、その時自覚できなくてもあとからわかることってある。人間いつでもその時に自分の気持ちがわかるわけではない。
今は「あの時裸になったことに傷ついている」というと「自分で選んだろ」と黙らされる。 「自分で選んだ」にもかなりグラデーションがあるし(背景にトラウマや精神疾患、貧困などあれば尚更自分だけの問題では無い)それとは別に自分で選んだけれど傷ついた、ときちんと認められる社会になってほしい。
回復のためには、過去の自分の気持ちがようやく自覚できるようになったときに、「そうだったんだね」と受け止められる社会が必要。
大体、脱ぐことの背景には貧困、精神疾患、それより前の性被害、障害、そして女性を人間として扱わずに性的に消費する社会があってのことなのに、選んだ本人だけのせいがなかろう。
1人で脱いで成り立つものごとじゃないんだから。
全部が本人のせい、社会も他人もなんの責任もない、なわけあるかい。
一生苦しむのだろうか、という不安
しかし苦しいなぁ、裸のこと。いつまでこういう気持ちに襲われて生きていかなきゃならないのかな。
気圧のせいなのか、昨日のお酒のせいなのか、Xで大河のヌードシーンについての色々を目にしているからなのか、そわそわしてしんどかった。死にたくはないけど、生きてもいたくない気持ちになる。
なんとか深呼吸をして自分を労る。しんどいを素直にSNSやこのレターに吐き出せることはよかった、とは思う。
こういう、社会でしんどいことが起きた時に不安や思っていることを好きに話し合える安全なコミュニティがほしいですね。孤独を感じる。今日飲みに行ってこの話をできるBARとかがあったらどれだけ救われただろうか。
少し体調がよくなっていったと思っても、ふとした時にインターネットを開くと自分の許可のしていない裸の写真を目にしてしまうことがある。そのたびにまた振り出しに戻る。こういう日常で、私の精神は本当に回復するということがあり得るのだろうか。
取り留めないですが終わり。書いとかないと、当事者の意見はないことになってしまうので書きました。
石川優実
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