あの時、傷つくことができていたのか

掲載後、あの時傷ついていたのか
石川優実 2024.11.27
誰でも

こんばんは。石川優実です。
あまり体調がすぐれず過ごしております。

赤旗掲載とその後の体調

(xには載せたポストです。)

うまく伝わらないかもしれないですが、誰かに抗議する意図はありません。文句を言いたいわけでも全くありません。

先日出た赤旗の記事(16歳で性暴力にあい、そのまま風俗で働いた話)が出て、今まで自身のプラットフォームでは書いていたことだったのですが、改めて新聞という媒体で出てそれがXで拡散されたことに、なんだかずしりと来るものがあったというか、自分の過去の被害や傷ついたことが媒体に載ったことで改めて傷ついてしまった自分がいました。(誰かが悪いとか後悔しているとかではないです)

被害について話すことに慣れているつもりだったし、知られることも私は脱いでるし、もうこれ以上別に知られて嫌なこと、恥ずかしいことはないと思っていたのですが、記事をX上で見た時の胸の奥のずしんとした感覚はすごく覚えています。

が、「自分で取材を受けると決めたことだから」「自分が知って欲しいと思っている事だから」「今更、もう裸が世にたれ流されてる自分だし」みたいな感覚で、その傷つきは無視しました。

その翌日から、再度飲酒が始まりました。

カウンセラーの先生と話していて、この2週間お酒も飲んだり動けなかったりの生活でだめな人間だということを話していたら、「それは傷ついた人間の自然な反応ですよ」と言われました。

傷ついたことが自覚できて良かったです。カウンセラーさんと話していなかったら、自分の奥の方に押し込めたまま、どこかで苦しいままだったと思います。

風俗で働いたことや、裸になったこと、色々とありますが、「自分で選んだこと」と、「それで自分が傷ついたこと」は、全く別のことであって、自分で選んだって傷ついていいんだと理解しました。(この「自分で選んだ」も性暴力の影響であることは大いに留意しなければいけないことではありますが)

加害者に責任を取ってもらうとか、加害者を罰するとか、そういうのとはまた別の軸で、自分が傷ついたことを受け入れて、それを癒すことは大切なことだなと思いました。

それにはまず、傷ついたことを自覚しなければなりません。他人がなんと言おうと、(「自分で選んだくせに」、など)自分が傷ついた事実を隠したり無くす必要は全くないです。

それは加害者や社会とのやり取りでなく、自分自身との向き合いであり闘いであり、共存であると感じました。

あの時傷つくことができていたのか

じゃあ、風俗で働いていたとき、私はきちんと傷つくことができていたのだろうか。どこからが性暴力かの境目もまったくわからないあの仕事をする中で、私は何度も「自分で選んだのだから」と言い聞かせて、自分に無理をさせてきました。これはグラビアや、映画で脱ぐ仕事もそうだったと思います。

というか、あの時きちんと傷つくことができなかったツケが今来ているのではないか、とも思う。

トラウマや精神疾患について調べていると、押し込めようとした悲しみや怒り、傷つきは、なくなったかのように思えるかもしれないですが長期的に見るとさらに大きくなっていく、というようなことをよく聞きます。

今も風俗や水商売、グラビアや脱ぐ仕事をしている人たちは、自分が傷ついたときに「私は傷ついた」と思えているかな。自覚していれば、そんな自分を労わったり優しくすることもできるかなと思います。

他の仕事では暴力になりうることが、「仕事」になったとて、傷つく可能性は誰だってある。(傷つかない人もいるかもしれないけど、といちいち言わないといけないのが意味わからんと思う)

でも、傷を自覚しながら働くことなんてできたかな、とも思う。

***

11月後半もいろいろあったので、またまとめて日記を書けたらと思います。お待ちくださいませ。

石川優実

無料で「石川優実ニュースレター「for myself」」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら